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マーク・ケイ
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生霊の祟りはあるのか?

2017-06-19 14:15:32

*公式サイトにて多くのアクセスを頂いている記事、ご好評を頂いている記事を抜粋してこちらに掲載しております

鑑定活動を行っている中で、時折この「生霊」の存在を疑い、恐れていらっしゃる方、霊能者と称する方に「生霊」が憑いていると言われ、それを容易に信じてしまい精神的に疲弊をしている方に出会うことがあり、ご相談を受けるケースも多くあります。

「生霊」の存在は本当にあるのか、それを論じている記事をここに転載致します。

Q:生霊の祟りはあるのか? 

A:生霊という存在をオドロオドロしいものに仕立て上げているのは私達の傲慢さです。もはや生霊というものは都市伝説的な怪しさと風説に支配されている感すらあります。生霊とは「愛によって成立し得る」存在でもあるといえます。親子、恋人、夫婦、親類、兄弟、親友といった愛情の対象にのみ形成可能な強力なシンパシーと信頼関係、そして相互の愛の波動です。それを自分や他人の身に起きるマイナスな現象のみを捉えて、誰かのマイナスの念のせいにしてお祓いの対象にするなどはもってのほかです。何かいいことがあったからといって、それを「生霊のおかげだ」と言いますか?悪しき事のみを霊のせいにする風潮の極みがここにあります。親が子供を労る気持ち、彼女が彼を心配する気持ち、遠くに住む親友を気にかける気持ち、それも生霊の本質なのです。

生霊の存在は自分で調べれば調べるほど疑いのない真実であるかの如くネットや書物の類いでは語られているでしょうし、このページに行き着いた皆さんも、恐らく「生霊」というキーワード検索をして辿り着いた方が多いのではないでしょうか。検索をされたという事実は裏を返せば、自分に起こった不幸な出来事が、まるで自分以外に責任の所在があると思っていたり、またある降り掛かった災いが誰かの念によるものではないかと疑念をもたれているからであったりする場合もあるでしょう。

生霊に関しても事の本質は「水子」と同じです。霊能者達が自分の能力や知識を誇示し世間にアピール(宣伝)するための一つの「商材」としてこれを利用し、意図的に流布させて来たものです。生霊というものがあると世間に信じ込ませなければ霊能者が食べて行けなかった訳です。ないものを、あたかもあると思わせることで、それを「祓う」というロジックを構築、形成していく。それはスピリチュアルの世界では古くから行われて来た悪しき慣習のようなものです。これは未だに手を変え、品を変え続けられています。毎年スピリチュアル業界に新しいキーワードが次から次へと生まれて来るのはその為です。書店のスピリチュアルコーナーに行けばそうしたもので溢れているでしょう。まさに「スピリチュアル」ではなく「インダストリアル(産業)」なのです。

スピリチュアルという世界は「信じる」「信じない」ではなく「知っている」「知らない」の世界です。いつの時代も「知らない」ことを誰かが利用しようとする、また不可思議な世界や未知の領域の世界への不安や恐怖が人の心を煽って、ある別な出来事が曲解されて、あれよあれよと増幅していくものなのです。そしてそれが定着してしまうと、またそれを疑わない人を利用する人々が現れて来る。そういう実情をしっかりと理解せねばならないのです。

「オーブ」のページでも書いていますが、自分に起こった不慮の出来事を、そうしたスピリチュアル的な事象、霊的事象に無理矢理合わせ込むことで、現状を納得しようとしている有様は本当に健全なことなのでしょうか。そういう時にこそ、自分の心の有り様を直視しなければなりません。「私に起こったことは生霊の仕業なのだ」そう思い込まなければやり過ごすことの出来ない自分の心の背景こそが「それが生霊の仕業であるか」よりも大事なことなのです。

「生霊」「水子」などを問題にしている霊能者、その他スピリチュアルに携わっている方を信じるのも、信じないのも自己責任です。しかしそうした能力者は自分の能力と知識の浅はかさを世間に対してアピールしていることと同じです。しかし、多くの人がその存在を疑わない以上、その浅はかさも無知も埋没して「常識」としてすり替わってしまうのです。有能な霊能者は自分を誇示したり必要以上の宣伝をする必要はありません。ですからないものをあると言ったりもしませんし、「ある」という世間的な空気感に乗ったりもする必要はありません。もし「生霊」や「水子」というキーワードに対して心を掴まれて、それを看板にしている人に価値を置いたのだとしたら、自分自身もその能力者も同じステージに立っているのだと言わざるを得ないでしょう。双方がその「生霊」というものがあってもらわなくてはならないという思いで繋がり合っているのです。

生霊の存在は、様々な民間信仰、古典文学(「源氏物語」「葵上(能楽)」「今昔物語集」他)でも伝わっていますが勿論これらは史実ではなく寓話であったり迷信の類いです。何故「生霊」というものは今日のようにその存在が定着してしまったのでしょうか。

それは「幽体離脱」という現象が世間に広まったこと。そして「テレパシー」という言葉が世間に広まったことがその大きな一端だと言われています。つまり「幽体離脱」と「テレパシー」という言葉が世間に浸透したその歴史を辿れば「生霊」の世間への浸透の起点に遡ることが可能だということです。

「幽体離脱」とは睡眠中などに人の身体から幽体(霊体)が抜け出す現象ですが、この「幽体離脱」中の幽体(霊体)が、覚醒している(眠っていない)人に認識されることがあります。このことから生きている人間(眠っていても、眠っていなくても)の霊や念が肉体から分離して、他者に作用する、災いを起こすと、飛躍、迷信化していった可能性があります。

一方のテレパシー(Telepathy)は精神感応現象とも言いますが、人物Aの心の状態、イメージ、思考内容が人物Bに遠隔で伝わることです。こうした現象の存在が世間に知られる時期と、一般的な生霊の言説が広まった時期は重なっています。テレパシーによって霊的な感受性の強い人は、思考内容が伝わる以上に、身体や心に変調を来たす場合があります。しかし、それ以上の危害や不幸が引き起こされることは全くありません。このテレパシーという概念が、「幽体離脱」と同じように、飛躍して解釈されていった背景があります。

また有能な霊能者(霊視者)や霊的な感受性の強い人が、人の「祈り」や「想念」が一定の場所などに沈着したり、放出される様子を認識出来るということも、一つの要因になっているのでしょう。例えば神社仏閣や霊場など信仰の対象となる場所では、人の「祈り」「想念」が信仰対象に堆積し、一時的に霊的な実像と化すことがあります。またここで実像化した霊体は、似た感性を持った人に引きつけられて離れた場所に移動するケースもあります。こうした時に霊能者や霊的な感受性を持った人に目撃をされたり、認識されることがあるのです。

しかし、これらがすなわち世間で言われているような「生霊」ではなく、「想念の霊的実体化」と呼ぶべきもので全く質が違うわけです。この「想念の霊的実体化」が「生霊による霊障」という迷信に変遷した一因になっていると思われます。ここに目を付けたのが一部の霊能者達です。「テレパシー」や「幽体離脱」では商売には結び付けにくいですから、それが憑いているから祓ってあげるという台詞を言える「生霊」という看板、概念が欲しかったのです。

生きた人の「祈り」や「想念」が物理現象として現実に影響を与えることが可能なことは、超能力の存在からも分かります。中国やロシア(旧ソ連)といった共産圏の国々は特にこの超能力の研究分野では高いレベルに達しています。またこの超能力を軍事レベルで実際に使用しています。ロシアのデューナ・ダヴィタシュヴィリは人の心臓を遠隔で止めたり、逆に治療をしたりすることが出来ます。実際にデューナはブレジネフ書記長の治療を超能力で行ないました。また空港で行なわれている赤外線による手荷物チェックではなく、超能力(透視)によるチェックが行なわれルーブルの国外持ち出しを厳しく監視していた実態があります(バッグの中の本の何ページにルーブルが挟まっているかまで透視で見ることが出来ました)。

こうした超能力による物理現象や透視は、その対象に対して明確な意図と目的が必要とされます。しかし、一般にいわれる「生霊」の言説では、本人が全く意識をしないままに「生霊を飛ばしてしまう」またそれによって「霊障を生じさせてしまう」というのが一般的です。ここに差異が出て来ます。具体的な企図しない、意識しない相手への漠然とした怒りや憎しみの想念が相手に実際の危害を加えることはないことは、このことからもよく分かります。

人間は歴史的に「祈り」や「想念」によって引き起こされる物理的な現象を日常の中で垣間みる機会が多かったのかもしれません。僧侶が真言を唱えてパワーを注入した水が治療効果を発揮したという話しは何百年もの昔から数多く伝わる話しです。しかしこの場合も、旧ソ連の超能力と同じで、対象に対しての明確な意思、意図が存在しています。対象に対して、如何なる影響を与えるか、そしてその行為が何故必要とされるかという意思、意図、目的です。

実際に「生霊」が引き起こしたのではないかと思わざるを得ない事例はあります。亡くなった人の霊を目撃した時のように、その人の「生霊」(つまり生きている人の姿を、その人が実際にいる場所とは異なる場所で目撃する)を実態として目撃した例もあります。

しかしこれらのほとんどは低級霊が、生きている人の姿形を真似ているに過ぎません。何故、低級霊が生きている人の姿形に成り代わって人前に現れるかというと、長い年月に渡り積み重なった迷信から来る人の不安感や恐怖心につけ込んで、それを利用しようとしているからです。そして人はそれにまんまと乗せられてしまいます。「生霊」による霊障などないということを多くの人が知ることが、低級霊による人に対する害をなくすことに繋がるのです。しかし人は風説に流され、それを容易く受け入れ、疑うことをしません。低級霊につけ込まれてしまう余地を自らすすんで引き受けているのです。

​また「生霊」の存在を固く信じて疑わない心の在り方を持っている方は、低級霊につけ込まれやすい、利用されやすい以上に、常に精神的不安やストレスを抱え込みやすく、自分や周囲に対しての決め付けや固定観念に左右され、それによって霊障と似たような事象を引き寄せやすくなってしまっていることもあるでしょう。

私自身は「生霊」の存在を疑いようもない事実であると定説化してしまっている人の流されやすい性質、そしてそれによって人が抱く不安感や恐怖心、またそれを更に利用し商売にしてしまう人々の存在に対して危惧を抱かざるを得ません。

見渡せばこの「生霊」「水子」に変わるキーワードで世の中は溢れている様にも見えます。その言葉がどうやって世間に浸透して来たか、誤った知識を広めることで誰かが暴利を得ていないのかなど、残念ながらこのスピリチュアルの世界では考えなくてはならないのです。

2006年 マーク・ケイ

筆者:マーク・ケイ

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